2001/08/19
遠山の金さんの話1
遠山の金さんという時代劇はもちろん実在するモデルの行動とはまったく異なっている点は、水戸光圀が諸国を漫遊していないのと同じくらい知られていることだと思いますが、ちょっと前にどこかで遠山の金さんのモデルとなった人物が政権争いに巻き込まれたときに取った行動が後々まで高く評価されたという話を読んだのでそれに関する資料が無いかと色々と探していましたところ、遠山の金さんそのものを調べることになってしまいました。
私が読んだのは、たしか遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元が奉行所内の一方の派閥に属していたにも関わらず、初期の段階で引き抜きがかかり、寝返りを打つのですが、その際に相手側の情報は聞かれても一切答えないという条件をつけて引き抜かれたというもので、のちにそちらの派閥の勝利がほぼ確定した段階で負けた側の派閥のものが負けた側の情報を手土産に寝返りを打ったという話から、遠山左衛門尉を見習え、と失笑を買ったというものでした。この件に関しては調べても資料が見つかりません。見つかったらまた書くかも知れませんが、今回はとりあえず遠山左衛門尉についてということで。まずは遠山家ですが、大本は源頼義の家臣である加藤景通に繋がります。一応、加藤家は遡ると藤原氏に繋がるという事になっていますが、このへんは怪しいのでとりあえず置いておきます。加藤景通の子の景貞(資料によっては景清)が伊勢国に移って伊勢加藤氏となり、そこから二代先に加藤景廉というのがいて、これが東美濃に移転して源頼朝の伊豆国挙兵のときから仕えます。その長男である加藤景朝が恵那郡遠山庄を頂き、遠山氏となりました。このときに彼は遠山左衛門尉を名乗っています。東美濃の遠山氏は更に七つの家に分かれて栄華を誇りますが、江戸時代になると苗木遠山氏と明知(資料によっては明智)遠山氏の二家しか残っていませんでした。遠山左衛門尉景元は明知遠山氏に産まれます。
さて、明日は講談の世界での遠山左衛門尉景元の出生と実際の景元の出生の違いについて書こうと思います。


 

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