2001/08/21
遠山の金さんの話3
昨日の続きです。
さて、遠山左衛門尉景元は二十二才のときに堀田伊勢守一知の妹のけいという女性と結婚しているからです。景元が出仕するのは二十八のときですがこの間の記録はありません。そのため、放蕩生活をしていたのではないかといわれるようになったのです。それでは遠山左衛門尉景元の最も有名な謎として、刺青を彫っていたかについて検証しましょう。結論から言うと、彫っていたかも知れませんが、それは小さなものであったと思われます。彫られていたのは女の生首説と花紋説があります。しかし、実は景元が活躍していた時代は天保の改革の頃なのですが、刺青はご法度でした。実際に景元は刺青をした人を裁いてもいます。よってたとえ彫り物をしていても決してそれを見せることは無かったでしょう。さて、では景元が何故名奉行と言われたのかについても探ってみましょう。景元と同時期に奉行をしていた鳥居甲斐守忠耀という人物がいます。この人物は親水野忠邦で、天保の改革の推進者でした。天保の改革の骨子は奢侈の禁止、風俗矯正、棄揖令、物価抑制です。もちろん景元も基本的には天保の改革に賛同していたのですが鳥居甲斐守忠耀はどうも行き過ぎる傾向があり、例えば江戸芝居を風紀上問題ありとし、江戸中の全ての芝居小屋を取り潰そうとしたりしました。景元はこれに真っ向から反対し、辺地への移動を提案、実際に五千五百両の移転費を幕府が出して当時は辺地だった浅草へ移転させたのです。つまり、芝居小屋を守ったわけで、当然庶民は景元に味方し、忠耀を毛嫌いします。この世評を知ってか、忠耀は計略をもって景元を大目付という、現場とは遠い、一応は管理職ですが閑職に左遷させてしまいます。ところが景元も反撃を開始し、忠耀の策略を暴いてしまいます。結果として忠耀は四国丸亀藩お預けとなり、景元が勝利して自分自身が南町奉行に返り咲きました。
それ以降、遠山左衛門尉景元は遠山の金さんという講談の人物となるのですが、明日は何故そうなったかの検証と晩年の景元について書いて締めくくろうと思います。


 

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