2001/08/22
遠山の金さんの話4
さて、遠山の金さんの話も今日が最後です。
遠山左衛門尉景元はたしかに当時の記録を見てもかなりの名奉行だったのは間違いありませんが、先駆者としては大岡越前が存在していますから、ただ単に名奉行だったという理由だけでは芝居にはならなかったと考えられます。しかも講談の内容は大岡清談と同じように実際の裁きではなく、架空なわけで、別に大岡清談であっても構わないような内容でした。とすると、なんらかの理由があって芝居小屋に取り入れられたわけです。その理由についてはまず、一つ目として遠山左衛門尉景元が北町奉行から大目付にされながら見事に南町奉行に返り咲いたことが挙げられます。このような事件は実は江戸時代中を見まわしても他に存在していません。またこの経緯を芝居小屋から見ると、自分たちを弾圧しようとした悪の奉行(実は任務に忠実だっただけの鳥居甲斐守忠耀)に真っ向から反対して自分たちを救い、そのため(かどうかはわからない)に計略にはめられて左遷(実際には昇格)されながらもその悪の奉行の悪事(というより政権争い上の行動)を暴き、見事奉行に返り咲いた(実際には降格)格好になるわけですから、景元に受けた恩を返す意味があったということ。また芝居のパトロンとなる商人から見ると株仲間の廃止を防いで商業を助けることもしたので、非常に庶民受けの良い人だったということがあります。そして、うがった見方をするなら当時の芝居小屋がマンネリ化していた点も見逃せません。それまでは大岡清談がもてはやされていましたが、これの人気が下火になり、それでは現役の奉行をもとに作品を作れば受けるのではないか、という計算がなかったとは言えません。そういう事情が複雑に絡み合って、遠山の金さんという講談が誕生したものと思われます。
景元は引退後、帰雲という号で俳句を書いたりして悠々自適の余生をおくります。そして、六十三歳という、当時としてはかなりの高齢で大往生しました。法名は長いですが「帰雲院殿従五位下前金吾校尉松遷日享大居士」と言い、巣鴨の本妙寺に葬られています。
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